旅
2023.05.09
皆さん。こんにちは。
東龍のAZUMA・KAZUMAです。イベントで東龍の日本酒を販売したり、お得意先に日本酒を売り込んだりしています。
さて、今日はkurishunaさんからいただいたお便りです。ありがとうございます!
先日、私、AZUMA・KAZUMAはシンガポールに出張しました。その時、日本酒を現地で販売しました。シンガポールの現地の方から以下のような声が飛びかったので、簡単に紹介しますね。
Singaporean :‘ You do not have any stock for this tasting? ’
AZUMA KAZUMA :‘ Forgive me, cos we no longer have ours. ’
‘ Have you been to Nagoya before where is pretty close to Osaka if you like to come up, visiting our brewery place. We are all welcome to you guys. ‘
簡単じゃないと思った方、大丈夫 !! グーグル翻訳があるので、簡単に翻訳できます。
グーグルさんはこうやって翻訳してくれました。
‘もう在庫が無いから許してね、そして日本の名古屋に来てくれたら、嬉しいよ’
今日のテーマは‘なぜ無いモノに惹れるのか?’
これをテーマにしてお話したいと思います。
早速ですが、ニーチェの言葉に、
‘人は遠いものを欲しがり、近いものを敬遠したがる習性の生き物’とあります。
なぜいきなりこんなことを言い始めるのかというと、
皆さん、最近のポケモンカード市場をご存じでしょうか?
ところ変わり、先日大須近辺をぶらぶらしているとトレカショップというところでポケモンカードが売られていていました。一枚100円のものから10万円近くするものまでありました。皆様、うわっ!!と驚かれるかもしれません。
カード一枚が、それもあの可愛らしいピカチュウのカードがなんと!10…100…1000円の値が付いてしまっているではありませんか!
もしですね、当時発売された初代ポケモンカードのスターターデッキに入っていたカード、例えばキラキラ光ったリザードンやカメックスといったがレアカードが今でも傷ついていない状態でしたら、オークション価格で日本人の平均給与を越えた価格で取引がなされているかもしれませんよ(なんてこった!あっぱれポケモンさん!)
さてこの件はたかがポケモンカードと思っていた自分も含め、皆さん、少々根深い話だと思いませんか?
私、AZUMA KAZUMAが幼少期の頃、ポケモンカードで友達と遊んでおりました。現在、ポケモンカードはもはや遊ぶためだけでなく、なんと世界を巻き込んだtrading card 通称トレカなんですね。(*その手の話にうとくて、AZUMA KAZUMA ちょっぴし反省。)
さりとて、こういったカード自体にかかる費用は紙の原価だけなのですが、そのカードについているニンテンドーさんのブランド・イラストそしてもう製造されていないという点がマニアの世界で大きく盛り上がっていて、ここまで市場を大きくしてしまったんですね。
飽くなき人の欲望・欲求が駆り立てられ、こうした当たり前だったピカチュウのポケモンカードが当たり前じゃないモノに変わってしまい、それに対する人間の感度が千変万化し、ピカチュウという虚像をここまでのモノに変えてしまったのでしょうか、それははっきりわかりません。(今、新しいポケモンがテレビで放送されています。あのピカチュウは通称キャップの名称で再登場しているけど、新しいポケモンのテレビでサトシ君はいなくなってしまいました。)
さてここから読み取れるのは、何でしょうか?
なぜサトシ君はいなくなって、ピカチュウは残ったのか?サトシは降板し、ピカチュウは残留したのか?いつも一緒にいたサトシとピカチュウ、長い年月をかけ、旅をしたサトシとピカチュウ。
カードの価値からもわかる通り、ピカチュウはサトシと違う‘情報’という価値を保有しつづけていたんですね。ピカチュウ(ピカチュウカード)に含まれている情報的価値はポケモンカードが本来持つ遊びの価値を越えてしまったと考えられますね。
ここで言う情報的価値とはなんでしょうか?
製造年月日(例:1996年)・製造された量(限定:100枚)・当時と比べて今は超有名なイラストレーター・カードに傷があるかないか、などあります。
そうこれらは全て、そのカードがもつ情報的価値として処理されているのです。
話を戻すと、シンガポールで在庫が無くなった日本酒を求める人々はいったい何に切望していたと思えますか?単に本当においしくてほしかったのかもしれませんが、彼らはこの‘無’という状況に惹かれていたと思えます。それは裏返せば、‘残’という状況が常にまとわり続けているのでしょうか?
これは恐らく、‘情報’は消えず溜まり続ける性質があるということと考えられます。
だから、情報としての価値が最大化したピカチュウのカードがわずかしか無いという逆の性質をもってしまったゆえに、人々が追い求める余り、ものすごい価格になってしまったんですね。
したがって、こういったことを知ってしまったシンガポールの方々も含め、昨今多くの方々が残らないモノ・残っていないモノに惹かれてしまっているのではないかと感じてしまいます。
このわずかしか無いというのを乱暴に扇動しているのが、個性という言葉です。
世間でいう個性とは、その人本来しか持ちえない何か、代替できない何か、です。
この‘その人しか持ちえない何か’というのがポイントです。これは若者から中年まではびこっている得体の知れない言葉です。
実は個性というのは生物界ではデメリットしかないんですね。例えば、動物を例にしましょう。バッファローの群れがサバンナを駆け巡る瞬間があります。これは後ろから敵、例えばライオンに追いかけられているという状況です。さて、あなたがライオンの場合、どのようなバッファローを食べたいですか?爺さんバッファローも入れば、子バッファローもいますよね。動きの遅いバッファローがライオンに狙われてしまうと考えるのが普通です。そこでこれらのバッファローは群れで逃げまわり、多勢で徒党を組み、肉食動物に捕食される可能性を軽減しているのです。つまり、足が遅い個性・体が小さい個性をもつバッファロー達は多勢で徒党を組むことで全体として大きく同じに見えるので、ライオンも捕獲しづらくなるのです。
では、もう一度、次の例を考えます。皆さん、アルビノという遺伝疾患をご存じですか?
自然界にごく稀に遺伝疾患で全身の体毛が白くなり、眼球が赤くなる種が発生します。この種はアルビノと呼ばれ、色素を変化させる遺伝子に異常をきたした状態で生まれてきます。
さて、このアルビノが一匹まぎれているバッファローの群れが走っているとします。体毛はその生き物の個性です。ですが、生存競争という面で見ると、どう考えても、不利なのです。なぜなら、走っているバッファローと比べると、体毛が白いので、敵から丸見えです。つまり、生存競争の面から見ると、わかりやすすぎて、捕食されやすいんですね。
では、無いモノとは数が少ないということですが、このアルビノ、希少性のせいで、ライオンに食べられる運命にあります。生物界では、背景模様に擬態して、捕食者の視界から消えて、難を逃れる生物もいます。
つまり、自然界ではデメリットなのが、人間がもつ情報界ではメリットに変わってしまうということが言いたいのです。
古来より、地域という場で人々は野菜をもらう代わりに醤油を渡したり、お酒をわたしたりしていました。それぞれの分野で足りないモノを交換しあうことでそのコミュニテイーの生存をはかっていたのです。それは、今はインターネットを介在して、よりつながりやすくなりました。今年の米が収穫されて、酒を仕込む。また来年の米が収穫されて、酒を仕込む。これは意図的ではなく、自然の流れの中で出現して、消える、出現して、消えるという連続的な運びなのです。当然、冷蔵技術が進歩したため、美味しく飲める期間が伸びたのは技術進歩から来た恩恵です。また、酒をよりうまくしていくのに改良されていくお米もまたしかりです。
したがって、人の欲望につけこんだ‘もとから無い’というのを演出すること自体は戦略的にしてはいけないと断言することができないのですが、無いから希少なので至高なモノだ。至高なモノだから、優れているモノだとすべてその考えにしてしまうのはいささか乱暴だと思えてしまうのです。
本来、残っているモノというのはそれだけで尊いことなのです。なぜなら、生存競争に揉まれ生き延びているからです。先祖から受け継がれた苗字、土地、家、また日々何気なく食べれる食材・その食材を料理して、家族と一緒に食べ、過ごす時間、そして日本酒などなど。実は気づかないだけで、そういったギリギリスレスレで残ってきたモノはたくさん残っているはずです。
シンガポールを例に出しましたが、海の向こうは我々にとってパラダイスでも何でもなくて、飽くなき欲望がはびこっている臨戦状態なんですね。そして、実際は希少性なモノを探し求める人で溢れかえっているかもしれません。ただ、残念ながらその希少性なモノは日本人にとって当たり前であるモノが多くて、そしていつしか日本人にとって当たり前じゃなくなっているんですね。ポケモンカードがいい例です。
ただ、それに気づいた上で、じゃあ私達、日本人は何もせずその有るモノにしがみついているだけでいいのか?そうではありませんよね。実は日本の中では地味だと言われているモノは世界では希少であるというのを前提にして、それを今一度認め、改善し、よりよいモノへと革新的な変化をおこしていくことが重要なのです。
失敗してもいいのです。比喩すると、私たちが自分たちで地酒を仕込むことが大切なのです。それはどぶろくになってもいいのです。それぞれが地の酒を仕込み、次のピカチュウを生み出していく時に来ているのです。
ただし、変化が激しい時代にあえて無いことを装って、安定したり、継承・世襲という理由で変化しづらいということを盾にし、行動不能に陥るのは全く別問題です。これではいいものが腐っていくだけです。
周りが進んでいるように見えてしまった時点で、すでにあなた自身が情報の一部になったと言えます。
情報にならないようにするには‘行動’しかありません。ただ、絶えず前に進むだけでなく、横に進んだり、後ろに進んだりすることも行動です。
‘本当に行動している‘ということは時間が膨大にかかり、静かな作業なのです。しかし、変化は確実に起きています。日本酒造りでは確実にそれが起きていて、毎年の味も変化しています。
このようなことを気づかせてくれたシンガポールに感謝あるのみです。
東龍は日々皆様に美味しい日本酒を飲んでいただけるよう、厳選した酒米を使用し、手造りで日本酒を仕込んでいます。東龍の最新の日本酒事情や季節の日本酒もインスタグラムやホームページで報告しています。
じゃ、またね~♪♪♪