日本酒と生活

愛知県酒造史(2)

2026.04.30

コラム

◎江戸時代

 愛知県の酒造の大きな発展は江戸時代に始まるのであるが、これは徳川家が三州の出身であること、尾張藩が徳川御三家の一つとして権力があり、かつ藩政の手段として酒造りを奨励したことによる点が大きい。したがって酒の生産数量が大きくなり、はっきりしてくるのは徳川初期からである。

名古屋開府の際、清須より移って酒造りを業とせる者は僅々二、三にすぎなかったが藩主光友が南都の酒を嗜み、奈良より杜氏を招きて醸造せしめてより、忽ち城下に伝わり、漸く隆盛となり元禄の頃には長者町、伝馬町、京町等に有名な酒屋が輩出し、古酒、新酒、諸白、次酒、中汲、焼酎、味醂酒、白酒等があり、元禄14年尾州領内の酒造高は114960石に達した。

 知多では大野の木下仁右衛門が元禄元年(1668)、知多浦舟改役を辞退して酒造業を始め良酒を製造した。以来酒造業を始める者が続いて大野が郡内第一の酒造地となった。わずか10年後の元禄10年には知多郡内に酒造家144戸造石高4500石となっている。この元禄時代の全国生産高が約90万石であるので、尾州だけで10%以上を生産していたことになる。現在文献がないのでわからないが、三州の方もこの頃には酒の生産が始まっていたと推定されるので、尾州、三州の両方を合わせた生産数量は相当大きなものになっていたと思われる。
当時の清酒の第一の生産地は伊丹、池田、大阪まで灘は未だ清酒生産地としては微々たるものであったので、これらの数字よりみると当時の尾州は伊丹、池田地区に次ぐ全国第二の大生産地であったようだ。この頃より大消費地江戸に送る酒、いわゆる下り酒が盛んになってくる。享保の頃の下り酒は伊丹、池田等の摂津が中心で全国江戸積酒造家1218戸中、摂津は1011戸であり、その他に泉州界5戸、尾州72戸、三州57戸、

濃州65戸その他3戸となっている。したがってこの享保の頃にはすでに摂津につぐ大生産地であったことはたしかである。この江戸積の酒だけでなく、この頃すでに大きな消費地となっていた名古屋に対して出荷も相当あったことが想像される。ただし、名古屋の藩主は他国より酒の入るころを禁じていたので、ここで消費される酒は専ら尾張内、主として名古屋城下で生産されたらしい。

 江戸積の下り酒は全国11ヶ国のみ許されていたもので、愛知県全体(尾州13州)の割合は、最高20%、最低4.3%、平均10%を占めていた。

 江戸時代前期においては1戸当たり生産石数も30~50石程度で比較的小さいが、江戸積の酒を生産するようになると1戸当りの生産数量も大きくなり、正徳年間には緒川村においては3戸で5408名、1戸で3000石の蔵もあらわれている。この頃より江戸積の生産の中心地は当時東浦組と言われた緒川、亀崎地区になって行きつつあった。江戸中期以後酒屋の数は徐々に減るとともに1戸当りの生産量は大きくなっている。

 当時の下り酒株の合計は52368石で下り酒屋の戸数は64戸であった。1戸当りの最高は6300石で、明治用水で有名な築木弥更の株である。一族の株を合わせると1万石に近く当時の愛知第一の大きな酒屋であり、全国的にみても数位の大きさであったと推定される。この財力が明治用水の原動力となったものと思われる。

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