日本酒と生活

毒味の世界~脳VS身体~

2023.03.14

コラム

皆さん。こんにちは。

東龍のAZUMA・KAZUMAです。イベントで東龍の日本酒を販売したり、お得意先に日本酒を売り込んだりしています。

告知ですが、3月24日・25日に納屋橋で夜市という日本酒イベントが開催されます。東龍の香り系のSAKEから冷凍DOBUROKUがあるようです。是非、団欒な時間を過ごしてください。

イベントについて、詳しい記載はこちらをご覧ください。

なやばしよいち

さて、今日いただいたお便りはMITANIさんからです。ありがとうございます。

MITANIさんからのお便りは「飲み比べは本当に正しいのか?」という質問です。

あくまで、飲み比べという行為が的を得ているのか、どうかということにしぼって、話したいと思います。

 今日のテーマは「毒味の世界~脳VS身体~」でお届けします。

 一般的なところで子供と両親は一緒に食事を食べます。ここでは、何かを好む、好まないに関わらず、家庭内で食事を取る子供の多くは親の方針を受けて育っています。その多くが両親と会話を進めながら、まだ食べたことが無い、飲んだことが無いモノを体に取り込んでいます。

そういった食事シーンの一部を抜粋します。

 1.「残さず、食べなさい。」

 2.「だされたものは必ず食べなさい」

多くの方が上記の例を耳にしたことがあると思います。

 

 1.2.を例にすると、多くの子供は両親と一緒に食事を取る時、初めて経験するモノに興味を示すも、得体が知れないモノであった場合、それを体に取り込みたくないと駄駄をこねたりしています。

 

 これは得体のしれないモノが目の前に出され、経験上、口を通して、身体に取り込んだことがないから、気持ち悪く、難をさけようとする子供と親のやり取りの一つです。子供はこの提供されたモノが自身にとって正しいか、正しくないのか、判断することができません。なぜなら、子供は今まで一度もその得体の知れないモノを摂取したことが無いからです。

 

 では、なぜその得体の知れないモノが自身にとって正しい、もしくは、正しくないと判断せず、子供がその難を克服できているのかと考えると、これは親がすでにその難を経験しているからと予測できます。したがって以下のように考えられます。

 親  : <難を経験済みな人> 

 子供 : <難を経験してない人> 

 ところが、現代は子どもから大人へ成長した多くの人々は幼少期に克服したモノを食べずとも、スーパーやコンビニエンスストアへ行けば、自分が好きなモノだけを食べることできています。

 

 次に、その好きなモノだけを食すという事態を端的に表している例を挙げます。

 3.「米を食べると太る」

 4.「タンパク質が体を大きくするから大豆や肉をもっと食べろ」

 例えば、3の場合、米が体重を増やすということを端的に表しています。また、4の場合、大豆が体の筋肉を造るということを端的に表しています。これは米の主成分である炭水化物が体重を増やしたり、大豆や肉の主成分であるタンパク質が筋肉の肥大に欠かせない分子であるということです。これは意識が人間の間に拡がるに拡がって、出てきた結果だと考えられます。

解剖学者の養老先生曰く、‘イコール’という概念は人間がもつ最大の特徴の一つと述べている。

いくつかその特徴を下に並べました。

<A:食物と機能の関係性>

米  = 炭水化物   → 体が太る 

小麦 = 炭水化物   → 体が太る

酒  = アルコール  → 体に毒

砂糖 = 炭水化物   → 体が太る

大豆 = たんぱく質  → 筋肉が大きくなる

 

<B:食物と概念の関係性>

みかん = 果物

りんご = 果物

すいか = 果物

 

 Aをみると、米・小麦・砂糖は炭水化物に分けられています。体の体重に影響が出るとされています。また、Bをみると、‘みかん’も‘りんご’も‘すいか’もすべて果物とされています。これはリンゴもミカンも同じ果物であると言い切っています。

 例えば、アレルギーの問題を除いた上で「リンゴは嫌いだから、みかんを食べれば良い」という例だけ考えて見ると、要するにこれはどっちにしても果物だろうと割り切っています。

 もし「リンゴというモノは酸っぱくて、甘い香りの果物だ」と聞いたことで、そういったモノは嫌いだと判断し、難を避けてしまうと、経験をしない人となり始め、その瞬間から意識によって切り分けられた世界が始まっていくと考えられます。

 では、これらを踏まえた上で本題である「飲み比べは正しいのか?」について考えてみます。

歴史上、取り込むという行為を正しく確かめているのは‘毒味をする人’でした。

   毒味:誰かに出される食物が安全かどうか確かめること   引用:(毒見 - Wikipedia)

 身体性が相当強い行動であり、その身体性があって、初めてそのモノの安全性を伝えており、そして味や原材料を身をもって経験している行為と言えますね。

 

 山田洋二さんが監督で木村拓哉さんが主演の「武士の一分」という映画があります。幕末の海坂藩の重要な責務に毒味がありました。毒味役の職を務めた新之丞(木村拓哉)はつぶ貝の貝毒で視力を失いました。その責任で広式番, 台所頭, の作之助に腹切りという結果が訪れました。つまり、毒味は身をもって証明させられた行為だったと考えられます。

 つまり、ここから言えるのは、毒味を通じて、飲んでみたり、食べてみたりする行為は、味や匂いに問題が無いか確かめて、そして提供されていたということです。したがって、飲む前と飲んだ後では行為の意味が次のようにわけられてきます。

 

飲む前              :鼻で嗅ぐ             →正しいかもしれないが、正しくないかもしれない

飲んだ後           :舌で舐め、飲む     →正しそう

 

 では、飲む前に行われた行為である、鼻で嗅いだ香りが正しいのかどうかを考えると、これは正しいかもしれないが、正しくないかもしれません。そもそも、鼻は脳の一部(慶應義塾大学教授:安宅先生)と述べています。つまり、脳が動いている時、意識の世界に移行しているため、理屈で動きやすい性質があります。

 例えば、アーモンドの香りがするから、これはアーモンドの液体だと思い、飲んでみると中身はシアン化カリウムであった典型的な毒物の例がこれに該当します。結果、次のように考えることができます。

 

毒味 :体で考えた行為の結果(味)

飲む前:頭(鼻)で考えた行為の結果(匂い)

 

では、飲んだ後はどうでしょうか? 

 これは風味、つまり、においと味を同時にとらえている行為です。つまり、半分は理屈で半分は自分の感覚にしたがっているのです。結果、次のように考えることができます。

 

 飲んだ後:体と頭で考えた行為の結果(味と匂い)

 

 これらを踏まえると、飲み比べは正しそうと言えそうですね。なぜなら、口の中に入れて、食道を通して、腹の中に入れる。つまり自分で毒味を行っているからです。また、比べるという行為があります。これはそれぞれを身体で複数回をとらえている行為なので算数的に正しさのパターンを増やす行為となっています。

 

 では、なぜ飲み比べが正しいのかどうかが議題に挙がるのかと言うと、次のような例がとりあげられます。

 

何かモノを飲み比べる前に、次のような正しさがある時、その行為は正しくなるのでしょうか?

(3種類の液体がそれぞれ別々に置かれている状態で)

左から順に「華やかなモノです。モワッとしたモノです。ツンとしたモノです。」

 

これはある意味、毒味前でもあり、毒味後の場合なため、正しいかどうかわからなくなるということです。

まとめると、飲み比べるという行為が本当に正しいかどうかは実はこういった正しさのせいでかえってわからなくなってしまうということと考えることもできますね。なぜかというと、飲んで比べれば、自分の体で判断できるのに、それをすでに香りに関する言葉で正しい感じに加工されているからです。

 最後になりますが、身体に関係した事例をいくつか挙げてみます。

5. 生き物「タコには触覚に感覚器官があり、ほぼ脳みそとして周りにあるものを認識する」

6. 個人「マスク無しの握手」

7. 個人「視覚が無い状態で暗闇の中を歩くとき、手を伸ばしている」

8. クラブの女性ママ「綺麗な女性にお酌してもらって、手でソフトタッチされた」

9. 飲み会の隣の席の人「横に座っている人と肩がそっと当たった」

 皆さん、上記のような例でいくつか思い出せる事があると思います。特に男性は女性に何かをお酌してもらった時、そっと手が触れてしまったら、そのよくわからない何か得体の知れないモノが途端に自分自身にとって美しいモノへと変化してしまっているのです。

 ここからわかることは、どんな人と語らいながら、ジェスチャーを加え、時に手と手が触れ合いながら、食事をとるという行為、実はそれが我々をなんとなく正しい方向へと導いているのかもしれません。

 王様や殿様に毒味を依頼されていた人物は正しくなかったら切り捨て御免な方ではなく、実は殿様・王様にとって感覚と理屈のバランスを正せた存在であり、自分のために飲むという行為を起こしてくれたため、敬意を払えた存在だったと考えられます。だから、毒味役の職を務めた新之丞は英雄であり、それを未然に防げずただ提供してしまった広式番, 台所頭, の作之助は切腹の刑にあったのかもしれません。(*もしここで木村拓哉が消えてしまったら、映画が台無しです。)

 したがって、飲み比べの正しさというのは、本人が行動してみたことで得た知見からすれば、ある意味、単なる残存物に過ぎないのかもしれません。

 そこのあなた、飲み比べをしようとしているあなた、

 飲み比べをしようと行動している時点で、あなたは身体を使っているのです。得体が知れないモノに挑戦しているのです。そして、その得体の知れないモノを飲んだ後、自分の身体を信じてみてください。それが正しいか正しくないかに通ずる唯一の方法だと思います。

 逆に、酒を造ったり、また、それを提供する側はお客様にとって毒味を実施した張本人であるので、当然、責任重大ということなのです。

 東龍は日々皆様に美味しい日本酒を飲んでいただけるよう、厳選した酒米を使用し、手造りで日本酒を仕込んでいます。東龍の最新の日本酒事情や季節の日本酒もインスタグラムやホームページで報告しています。

 じゃ、またね~♪♪♪

 

 画像:ホムンクルスの図:ペンフィールド

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